​  修士論文
「作品において写真と銅版画の持つ媒体的特性について」、2021年

作家ノート

 作家であれば誰でも表現したいと思う創作意志があり、それを起こす何らかの動機を持っている。主に私の創作意志を刺激する感情は「郷愁」、「懐かしさ」、「思い出」、のような言葉にまとめられる。しかしこの単語さえ私が感じる感情の全てを正確に伝えられないし、その意味の枠組みの中にすべては込められない。ただ、とりとめのない感情の渦からつかんだ一つの手がかりのような役割だと表現するのが最も近い。私はいつも感情を一つの単語や記号として正確に提示することに困難を感じる。「意味は常に他の単語との差に依存し、その意味の正確な位置を指し示せない。」

 私の作品は写真のイメージから始まる。私が直接撮った、あるいは家族の昔のフィルム写真アルバムから私の中の何かに触れる写真を探しそれをもとにスケッチをして銅版画に移す。私はここで「私の中の何かに触れる」という表現に注目したい。それは「懐かしさ」なのか、「愛」のか、「憐憫」なのか、それともまた別の何かなのか。正確に一つの単語で表現できない。しかし私はそうした表現を包括する何かを感じる。そしてそれは創作の動機になる。

 私はローラン・バルトの写真論で「プンクトゥム」概念を接し共感している。彼の主張は先に述べた創作意欲を感じる瞬間と似ている。バルトは彼の著書で「ストディウム」と「プンクトゥム」の概念を述べている。「ストディウム」とは一般的な写真の感想である。写真の中で客観的な情報を読み、ただうなずいて理解することである。これには「プンクトゥーム」が入っていない。一方、「プンクトゥム」というのは尖った物で突いた傷のようなことである。バルトは彼の著書で「ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである」と述べている。それは個人的で非論理的に思い浮かぶ感想である。私がインスピレーションを受けるその現象をバルトはプンクトゥームという概念を作って説明した。

 プンクトゥムは極めて個人的な感情である。それを起こす対象は私には特別であるが他人には何でもないかもしれない。人によってプンクトゥームを感じる瞬間や対象が違うからである。それはその人が生きてきた人生や経験、状況に基づく。そこでバルトは「プンクトゥムの事例を提示することはある面において自分自身をさらけ出すことだ」と述べた。

 私の作品制作も極めて個人的な場面で始まっており、自己告白の性向がある。私はいつも作品について説明する時「銅版画に刻んだ私の記録」という説明をよくするが、ここで言う記録は「document」や「record」の意味より「日記」に近い。筆者が結論的に残したいのは先に述べた感情の記録である。ただ日記帳に文章を書く方式ではなく写真を撮り、銅版にイメージを刻んで刷るだけである。

 それならなぜ写真から始まるのか。室内風景を描きたいなら写生することもでき、肖像画が欲しいなら手描きもできる。私はここで本能的に写真の持つ二つの時間性に引かれたことに気づいた。写真はシャッターを押した瞬間、過去になる。シャッターを押した瞬間、現実とはかけ離れた一つの幕ができる。このような抽象の観念をまず意識して制作したのではない。本能的に写真の中に収められたイメージに言葉にならないような惹きつけられ、逆に作品を制作しながらどうして写生ではない写真に引かれるのかを悩んだ。そして私がこのような時間性にひかれているということがぼんやりとわかった。過去、結局あるものを振り返ろうとする感情から始まるひかれるようになった。このような写真イメージにひかれることが作品制作の動機になり、鉛筆を持つようにする。

 

-中略-

 バルトは写真にある要素(記号)に鑑賞者が名前を付けることができれば、その要素はストディウムの領域にとどまると述べている。逆に言葉で表現できない感情はプンクトゥームに該当する。バルトは「私が名指すことのできるものは、事実上、私を突き刺すことができないのだ。名指すことができないということは、乱れを示す良い徴候である」という文章で述べているし、それを「脱コード」と呼ぶ。

そしてこのように記号や名前を見つけられない感情は沈黙の中から出てくると主張する。すなわち、プンクトゥームの完全な主観的状態は沈黙から来るものであるが、これは写真のディテールが自ら見る者の内面から上がってくるように放っておけという意味である。

 私は彼の「脱コード」の主張に共感する。私は写真を撮って写真を選び、その対象からプンクトゥームの感情を感じる。私にプンクトゥームを起こす対象は家族と、過去と、個人空間、基盤の移動などである。しかし、その対象でどんな感情を感じるかを表現しろと言われたら一つの単語で説明することはできない。それは恋しさか、愛なのか、憐憫なのか、それとももう一つの何かのか。正確に一つの単語で表現できない。あれらの表現は当たっているが適切ではない。また、十分ではない。しかし、私はそうした表現を包括する何かを感じる。そしてそれは創作の動機になる。

 私の作品には沈黙で一貫する「脱コード」の属性が含まれている。私はこのような「脱コード」を伴う感情から創作動機を感じながらアイディアを求める。もし私が随筆家や小説家だったら創作は苦しかもしれない。しかし幸いにも私は視覚イメージを扱う人であり、プンクトゥムの感情を写真から版画に再媒介して表現する。私は作品のタイトルからこのようなプンクトゥムの端緒になる単語をタイトルに提示する。それは感情の正確な表現ではないが、必要とされる手がかりではる。あるいは、プンクトゥムを起こした状況そのものを提示するタイトルをつけることもある。いずれにせよ、これは私のプンクトゥムに案内する手がかりにもなり得るし、あるいは鑑賞者のもう一つのプンクトゥムを引き起こす「突き刺し」にもなり得る。

 

 

論文の緒論 中

金 知慧(キム・ジへ)